2014年10月5日日曜日

恋愛不能者による恋愛(?)マンガ紹介

 僕は保育園児のころ、同じクラスだった女の子が猛烈に好きだった。なぜ好きだったのかは分からないし、今となっては顔もはっきりとは思い出せない。しかし寝ても覚めてもその女の子のことばかり考えていて、自分の中ではそれ以降も、保育園の女の子以上に好きだと思う人は現れなかった。すごく外見にこだわっていたり要求が高かったりするというつもりはなく、保育園からの同級生が誰もいない小学校に入学して以降「恋愛って何だっけ」状態になってしまったのだと思う。

 小学校も中学校も高校も好きな子がいないというのは、大切な青春の時期にモノクロの世界を生きているようなものではないだろうか。これはもう、自分は女の子が好きじゃないのだと結論を出した方がラクかとも思われたが、特に男が好きになるということも無かった。

 マイペースに自分の好きなことを追求することができたのはいいけれど、本に、音楽に、映画に、マンガに、恋愛が出てくる度に「自分に好きな人ができたらどんなに良いだろう」と、恋愛という枠組み自体に憧れを持ったのをよく覚えている。

 思春期の自分が一番グラグラ揺さぶられたのが、手塚治虫の『火の鳥復活編』だった。
 作品のテーマは、ロボットと人の違い…つまり人間の体を機械にしていったら、それはどこまでが人と言えるのか というものだったり、徹底して描かれる主人公の深い孤独だったりするのだけれど、それはさておき、僕はこの本をマンガ史上に残る恋愛作品だと思っている。

 主人公のレオナは事故で生死の狭間をさまよい、再生手術を受ける。しかし、脳のほとんどを人工頭脳に入れ替えたために、人や動植物は全て土くれやホコリの塊のように見え、声も風が吹き抜けているように 認識されるようになってしまう。それは家族でさえも同じで、実の母も無機物のように感じられる。
 しかし、世界にたった一人取り残されたように感じているレオナの目に、美しい女性の姿が映る。必死で後を追ってみると、彼女の名前はチヒロ六一二九八号といい、実際には機械むき出しのロボットだという。
 レオナは周囲から変人扱いされながらもチヒロを愛し、その一方で作業用のロボットであるはずのチヒロにも愛情が芽生えていく。

 有り体に言うとまあそんな話だけれど、二人がついに駆け落ちをして、郊外の自然の中で心を通わせるシーンは、抽象的な描写がなされているんだけれども、何度読んでも心が震えるような美しさが感じられる。また物語が結末に向かい、二人がついに自由になって結ばれる場面では、僕のような恋愛不能者であるかどうかによらず、これ以上に幸せで、これ以上に悲しい結末は無いと思われることだろう。

 僕は生まれてくる娘にチヒロという名前をつけようとして却下されたのだけども、それくらいこの作品が大切である。僕がこの本に出会ったのは小学校の高学年のころ、練馬区の区民館のマンガコーナーで あった。ほとんど救いがなくて、ページを繰っていても苦しい気持ちになることが多いのに、幾度となく読みながら多感な時期を駆け抜けて来た。

 特別な時期に触れた作品は、いま改めて触れてもその当時の感動には立ち返れないとよく言われる。「あの映画、当時はすごく感動したのに…」とか「きっとあの頃の気持ちにはなれないから、二度は観ないようにしている」と言う人は多い。
 けれど、自分を形成しているものが孤独 と、深い愛情への憧れだと認識しているので、僕はこれからも『火の鳥復活編』を読むだろう。何度でも自分の根の部分を確認できるからだ。

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